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ブロイラー
 暗い嵐の夜だった。「彼」は暗く深い淀んだ森の中を歩き続けていた。外に出るのは初めてだった。(「彼」には外という概念さえ無かったのだが)「彼」には名前も、番号さえも無い。産まれて来て程よく育ち出荷され町の人の腹の中におさまる。それが他の仲間達と同様に決められた「彼」の生き方だ。今日は彼が出荷される日だった。どうして外にいるのかは分らない。(多分係員のミス)彼はぬかるんだ道無き道を行きながら上から絶えま無くそして激しく落ちてくる水が嫌で嫌でしょうが無かった。服が張り付く。産まれてから今までずっ「彼」が過ごして来た場所ではこのような事は決して無かったのに。元の場所に帰りたかったが場所が分らなかった。裸足の足は泥だらけだ。少し血も滲んでいる。時々訳の判らない生物が横切ったり遠くからか近くからか悲鳴のような声も聞こえる。全然怖くは無かったけれど服がべったり張り付いたりだんだんと辺りが暗くってゆくのが嫌だった。自分の回りが暗くなるだなんて産まれて初めてだ。でもどうする事も出来なくてただただ歩き続けていた。ぬかるみに足を取られ泥の中に何度も倒れた。それでも立ち上がり歩き続ける。
 それしか出来る事が無かったから。
 どの位歩き続けただろう。雨は相変わらず容赦無く彼を叩き付ける。冷たさを通り越して痛い。何故だかは判らないけれど涙がどんどん流れる。雨と一緒にどんどん流れる。近くできぃと何かが鳴く声が聞こえた。ふと遠くを見ると明かりが見える。帰ってきた? 心臓が高鳴る。どう見ても元居た鶏舎とは大きさが違い過ぎるのだがそんな事判らない。力を振り絞り駆け出した。その間も涙がどんどんどんどん流れる。視界が滲むが真っ暗な森の中で柔らかな光りを発しているのはそこだけだったから迷わずまっすぐ走った。途中何度も何度も転んだり木や草で引っ掻いた傷から血が滲む。痛くて痛くて仕方なかったけれど光りを見たらそんな事はどうでも良くなった。あの暖かい所へ帰れる。絶対に暗くならない明るい光の中へ帰れる。
 小さな粗末な作りの家だった。愕然とした。あそこじゃ無い。元いた場所じゃあ無い。どんどんどんどん涙が流れる。泥の中に崩れ落ちて。犬の吠える声がする。ドアが開く。男が立っていた。仲間達とも係員とも違う。自分と同じ白い服を着ていないから。マスクもしていないし。消毒液の匂いもしない。涙で滲んで顔までは判らない。犬が近寄って来て顔を舐める。男が腕を掴んで立たせてくれた「こんな森の奥で子供が何をしているんだ? 親は?」普通の事を言ったつもりだったがこの真っ白で細い子供は泣いてばっかりだ。とりあえず家に入れる事にした。暖かいお湯で身体を洗って着替えさせてパンとスープを振る舞った。あまり美味そうに物を食べないのが少し気に触った。子供が来ていた服に養鶏所の印が縫い付けてあった。あの子供は町の人間が食べる鳥肉なのだな。森のもっと奥深くにある白い大きな建物が食用人間の培養所なのだな。と理解した。噂じゃ無かったんだ。前に何度か宴会で鳥肉を振る舞われた事があった。……考えない事にした。彼は首切り役人。仕事がある時だけ遠路遥々町へと向かう。それ以外は森で犬やネコや鶏等と暮らして居た。彼と一緒になろうという酔狂な女性は現われ無かったしたからだ。やりたくてやっている仕事じゃあ無いけれど父親の事は尊敬していたし大好きだった。だから後をついだ。
 「他の仲間は?」何となく訪ねてみた。「町へ行った」ぼそりと答える。口がきける事に少し驚きながらもう一度訪ねる。「何をしに?」「幸せになりに」もう一度訪ねる。「幸せとは?」もう一度答える「判らない。早く大きくなって町に行けば幸せになれるとだけ聞いた」幸せになりたかったのか? 聞いてみたら良く判らないとだけ答えた。思った通りの答えだった。お前は食われるんだったんだよ。と意地悪く言ってやろうとも思ったが止めた。真っ白の髪の毛に肌。雌は「卵」を生ませるはずだから雄なのだろうな。とふと思う。特徴の無さ過ぎる顔。決して綺麗では無いし不細工でも無い。細い筋張った四肢。金色の目。ざあざあと雨の音。飼っている動物達は暖炉の暖かさで心地よく眠っている。犬が寝ぼけてくぅんと鼻を鳴らす。自分の寝床の藁の上に布を掛けて作った寝床に子供を横たえた。その上に毛布を掛ける。「寝ろ」それだけ言うと背中を向けた。
 この人は何だろう。この人は何だろう。この人は何だろう。それでも身体を伸ばして寝るのなんて始めてだったから気持ち良かった。
 こいつを町の奴に売ればしばらくは仕事をしなくて済むかもな。でも、そんな事は出来ないのだろうなと思った。これからどうしよう。気持ち良く眠っている子供を毛布の上から軽く叩く。どうにかなるさ。と首切り役人は冷たい床に寝そべった。
トラベルミン