透明な花
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花になろうと決めた。大好きな人が虫になる事を選んだから。 僕達の世界は狭くて美しい。そうしてどんどん狭くなっている。 僕達は花の種から生まれる。僕ら幼生体は学校で世界の仕組みを学ぶ。早い者は10ヵ月位で成体になる。花か虫になるのだ。花になるか虫になるかは自分で決める。虫は花を食べて生きる。伴侶を見つけて卵を生む。雌は花の種を一つだけ生む。その種から僕ら幼生体が生まれる。 僕と仲の良かった三つ年下のナンセンは花になった。薄紫色の小さな花。あっと言う間に虫に喰い尽くされた。ナンセンを食べた虫はスタンレー。僕とはあまり仲が良く無かったけれど明るくて人気のあった奴だ。 大きな枯れ木に絡まった太い蔓に実った透明なサヤの中に僕達の住居兼学校がある。大きな枯れ木は今は枯れ木だけれど昔は物凄く立派な木で青々とした緑が茂っていたらしい。そうして今は世界にたった一本しか木が無いけれど昔は沢山の木が生えていたらしい。全く想像もつかないけれど。成体になるまではずっと学校で過ごす。そうしてそこで世界の仕組みを学ぶ。世界はそこから一望出来る。色とりどりの花々と虫達が一望出来る。世界の端はうすい靄で霞んでいる。間違ってそこに飛んでいってしまった虫は二度と姿を見せる事は無い。そこに何があるか知っている人はいないし知ろうとする人もいない。僕も知ろうと思わない。 僕の大好きなヘンデルは虫になると言った。僕は雄だから虫になってもヘンデルと一緒になる事は出来ない。だから虫にはならない。花になる。 多分ヘンデルの方が成人するのが早い。僕は皆より成長が遅いのだ。もしかしたら幼生体のまま一生を終えるのかもしれない。それだけは嫌だった。幼生体のまま成体になれない場合は教師になる。そうして生まれて来る幼生体達に世界の仕組みを教える。 最近は虫や花になりたく無い幼生体が増えている。教師はそれは世界が終わりに近付いているからだと授業で教えてくれた。世界がどんどん狭くなって来ているのもそのせいだとも。靄が枯れ木まで到達した時が多分世界の終わりなのだとも。 ミチュ−リンやメリメは泣きながら花になった。ずっとずっと幼生体ままでいたいと言っていた。なかなか成体になれない僕は二人が凄く凄く羨ましかった。二人の花はとても悲しくてそうして薄汚なかった。だからどの虫も彼等の花を食べようとしなかった。二人の花を見る度に嫌な気持ちになった。そうして忘れられないのがウェーバー。彼は本当に苦しみながら虫になった。助けてくれと悲鳴が聞こえた。彼は地を這う虫になった。目も無く耳も無く鼻も無い醜い醜い醜い虫。べちゃべちゃと嫌な音と汚らしい粘液をまき散らしながらサヤを去って行った。この時は本当に嫌な気持ちになった。僕は早く花になりたい。 ヘンデルが成体になる日が来た。僕にだけこっそり羽虫になると教えてくれた。僕にだけというのが凄く嬉しかった。ヘンデルも僕の事を少しは好いてくれているのかもしれないと思うと心臓がドキドキした。 ヘンデルは本当に美しい羽虫になってサヤを飛び立って行った。透明な8枚の羽に硬質で流線形で美しいカタチの体。早く、早く花になりたい。 どんどん枯れ木に靄が近付いて来る。このままだと僕が成体になる前に世界が終わってしまう。僕は枯れ木のすぐ側に咲く事に決めていた。世界が終わるギリギリまでヘンデル待つつもりだったから。 ある日体が変だった。遂に花になる日が来た。まだ幼生体のままの皆に対して凄く誇らしかった。だって僕は花になるのだから。 体がぱちんと弾けてばらばらになる。そうしてばらばらになった体を組み立て直して別のカタチになる。弾けた瞬間僕の頭の中はヘンデルの透明な8枚の羽で一杯になった。とてもとてもとてもとてもとても綺麗だったから。あんな風に、あんな風に、あんな風になりたい。 靄はもう本当にすぐそこまで来ている。もうすぐ世界が終わる。でもそんな事はどうでも良い。だって目の前にはヘンデル。僕を食べてくれる。世界が終わる前に食べてくれる。 僕の終わりの方が世界の終わりよりも早かった。ヘンデルに会えて良かった。ヘンデルが僕を食べてくれて良かった。本当に本当に良かった。 少し心配なのは僕の味。ヘンデルの好みじゃ無かったら少し、悲しい。 |