物凄く気分が悪くて。
とにかく色々あったけれど無事に帰宅する事が出来た。絵に描いたようなボロアパート。私以外の住人は皆老人か外人。何でそんな所に住んでいるのと皆笑う。学生時代にお金が無くてここを見つけて何となく引っ越す機会を逃しただけなんだけれど。
夕暮れ時。薄暗い路地裏。よどんだ空気。漂う異臭。嫌な感じに真っ赤な空。気だるげなカラスの鳴き声。ドアの鍵をのろのろと探す私。小さな整理されていない鞄の中からようやく鍵を探し出す。鍵が古いのかドアの鍵穴が古いのか角度を上手く合わせないと開ける事が出来ない。慣れるまでに随分と時間が掛かった。
今日は色々あった。本当に色々。……色々。
遅刻しそうになりながら小さな灰色に向かって早足で歩く。運が悪く信号につかまる。ああ。タイムカードを押せないじゃあ無いの。遅刻したらどうしてくれるの。まだ赤信号だったけれど車なんていない。いつも車なんていない。少なくとも私が入社して5年この通りで車なんて見た事が無い。信号を無視して賭けこんだ。重たいドアの前に錆びて古びたタイムカード。かすれたインクで刻まれた時間はAM8:59。今日は一分早かった。一寸だけ嬉しい気持ち。事務場へと繋がる小さなドアを開ける。
「おはようございます」
勤めて明るく挨拶をする。狭い事務所の一角に社員全員が集まっている。重たい空気。嫌な予感。場違いな空気が流れる。何人かが私の方を見る。そうして何人かは私を見ない。何やら小声で話し合っている。
「あの……どうか……したんですか?」
私はこの会話に加わっても良いのか。一寸不安になる。事務員のサヤカが重たい口を開いた。サヤカは大人しいだけの子。年頃なのに化粧っ気一つ無くて。いつもうつむき加減でいつも何か言いたそうなのだけれどいつも何も言わない。言い辛そうに一言だけ。
「あのね、妙子さんがね……」
妙子。私の大嫌いな女だ。こいつのせいで会社に来るのが毎日毎日毎日本当に毎日おっくうで仕方が無い。何がきっかけなのか知らないけれど全然分からないのだけれどある日突然私を視界から追い出した。何があっても私の方を見ないのだ。他の皆には普段通り接していてそれが更に勘に触ったし正直悲しかった。 サヤカはそれ以上何も言わない。そうしたら隣に立っていた上司の谷村さんが続きを言った。いつも口元に薄笑いを浮かべて嫌味ばかり言っている人なのに今日は今にも泣きそうな顔をしている。そっちの顔の方が似合ってますよ谷村さん。
「死んでいるんだ」
理解するのに数秒掛かってしまった。
「え」
意味が分からない。
「ここで死んでいるんです」
サヤカ。
「ここで死んでいるんですか?」
思わず聞き返してしまった。誰かが指を指す。その方向に目をやると……。
本当に死んでいた。茶色く変色した薄汚れた事務場の壁にもたれ掛かるようにしてだらしなく座ったまんま死んでいた。ドス黒く変色した血が壁を彩る。
思わず言葉を失ってしまった。そうして他の皆も失っているんだろう。
無言のまんま時間が流れる。
「……警察に連絡しなくて良いんですか」
何となく声に出してみる。連絡しなくても良いんだろうか。もうすでに誰かが連絡したものだと思っていた。けれど一向に警察が来る気配は無い。
「大丈夫だよ」
聞きなれた誰かの声。
「そうね。大丈夫ね」
聞きなれた誰かの声。
「でも、これは……」
谷村さん。谷村さんの方に目をやると今にも青ざめていて泣きそうな顔でそれでも必死で。
誰かが谷村さんの肩を叩きながら、
「大丈夫だよ。谷村君」
「そう、大丈夫よ谷村さん」
「そうだね。大丈夫」
「久し振りだから驚いたけれど、大丈夫だよ」
何を言っているのか本当に全く分からない。
「エミコは、こういうの初めてだったよね?」
いつの間にかサヤカが私のすぐ横にいる。手を肩に回して身体を摺り寄せてきた。ゆっくりとした動きで顔を近づけてくる。何だか様子がおかしい。いつものサヤカじゃあ無い。怖くて見る事が出来ない。楽しげに笑っているような気がする。
「大丈夫。大丈夫だから。ね?」
谷村さんが泣いている。必死で声を殺して泣いている。
他の皆は?怖くて見る事が出来ない。
「エミコさんは、妙子さんの事嫌いでしたよね?」
「だからエミコさんにやらせてあげますよ」
「皆、妙子さんのエミコさんに対する態度知っていたんですよ」
「あの態度はあんまりでしたよね?」
「嫌な女でしたよね。私も大ッ嫌いだったんですよ」
「いい気味ですよね。アハハ」
「そうよねぇ。タエちゃんって自分勝手な所があったし」
聞きなれた誰かの声。
「ですよねェ。アハハ。こうなって当然って言うか。それはチョット言い過ぎだったかしら。アハハ」
サヤカってこんなに喋るんだ。つまらない事が気になる。
谷村さんが泣いている。必死で声を殺して泣いている。
私は?
「出来るよね?エミコ。」
「やらないとね、次はエミコさんの番ですよ。だからやった方がいいですよ」
小声で。そうして必死で。サヤカ。
出来ないとは言えなかった。
アパートの部屋に転がり込む。流し台に向かう。げぇげぇ吐いた。鼻水と涙をダラダラと垂らしながら。やりたくなかった。やりたくなかった。やりたくなかったんだよ。その場にへたり込む。涙が止まらない。でもこれは悲しみの涙じゃあ無い。じゃあ何の涙?
わからない。わからない。わからない。
ピリピリピリ。ピリピリピリ。ピリピリピリ。
メール着信音。本当に何て耳障りなんだろう。物凄く勘に触る。
気のきいた流行りの曲にでも変えておけば良かった。
のろのろと携帯電話に手を伸ばす。
【お疲れ様でした】
今晩はエミコさん。サヤカです。今日は本当にお疲れ様でした。又明日からも仕事頑張りましょう。これからもどうぞよろしくお願いしますね☆ サヤカ
冷や汗が吹き出す。夢じゃ無かった。夢じゃ無かった。夢なんかじゃあ無かったんだ。夢だったら良かったのに。
今日は色々あった。本当に色々。……色々?
のろのろと立ちあがる。
西向きの小さな窓。いつもは閉じっぱなしの色あせたカーテンを勢い良く開ける。立て付けの悪い窓を苦労して開ける。息苦しい程生ぬるいよどんだ空気が部屋をゆるゆると満たす。よどんだ空気と私はゆっくりと一体化する。
これが私の日常なのに今更何。外に向かって大声を出して笑う。無理矢理笑う。
少しだけ、本当に少しだけ気分が楽になる。
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